Pink Confusion
信じられない。
服部が、俺との約束をすっぽかした。
『すまん! ほんっとにすまん!』
「知るか」
寒い、十一月になったばっかりの土曜日。
こいつから、買い物につき合ってくれと言われたのに。
︙︙当の本人は、約束の一時になっても二時を過ぎても姿を現さなかった。
銀座の東急ハンズ入り口。
寒く、薄暗い空。
「もう来ないんだろ。帰る」
『ちょお待て切るな!』
新一は、平次の言葉を最後まで聞かずに電話を切る。
そしてポケットにスマートフォンをしまい込んだ。
︙︙小さな雫が、頬に当たる。
見上げた空から、雨が落ちてきていた。
「︙︙とうとう降って来たか」
ポツリとそう呟くと駅の方へ歩を進める。
事件に出くわしたのか。
事故にでも遭ったのか。
電話に出ないから、嫌な想像ばかり膨らんでいた。
別に、怒ってなかった。
服部の事だ。
何か理由があってのことだろうし、どんなに遅れても約束の場所に現れて、思いっきり俺に頭を下げて許しを乞うだろう。
でも。
「なんだよ︙︙誰だよ『サクラコ』って」
あいつの口から出てきたのは、知らない女の名前だった。
平次と連絡がとれたのは、三時を過ぎた頃。
入り口を入った先にあるスツールに腰を下ろし、缶珈琲で暖をとっていた所に着信。
何かあったに違いないと、急いで出る。
ところが電話に出た瞬間の言葉が、新一は信じられなかった。
『工藤? すまん忘れとった!!』
「︙︙忘れてた?」
事件に出くわした訳でもなく、事故に遭った訳でもなく。
ただ『忘れてた』と、平次は言った。
『実はな︙︙うわ桜子!! 変なトコ舐めんなや!』
「!?」
どうやら約束を忘れてた上に、こっちに向かおうともしていない。
それだけでも充分怒りの対象なのに、次に出てきた女の名前。
『サクラコ』
︙︙舐めてる?
変なトコって、どんなトコだ︙︙?
「言いたいことは、それだけか」
新一の声のトーンが明らかに下がった。
平次もそれを察知する。
『すまん! ほんっとにすまん!』
「知るか」
心配していた自分がすごく馬鹿みたいに思える。
その女と一緒にいて今日の約束も忘れ、何かの拍子に思い出し焦って連絡してきたと言うことだ。
︙︙もう何も聞きたくない。
だからさっさと電話を切った。
雨足が強くなっている。
せっかく来たからと少し買い物をして米花駅に着いた頃には、既に真っ暗だった。
改札を抜け、傘を出す。
横断歩道を渡ろうとしたとき、腕を掴まれた。
「工藤!」
振り向くと、息を切らしている服部平次。
「︙︙」
新一は、振り解こうとしない代わりに何も喋らず。
『何の用だ』と問う鋭い眼差しで、目の前の男を見る。
睨んでいるのに少し困った表情。
平次はそのまま腕を引っ張り、少し離れた所に停めてある車の助手席に新一を押し込んだ。
急いで運転席に滑り込む。
まだ、新一は喋らない。
「今日のは俺が悪い。どないすれば機嫌、直してくれるん?」
あの後いくらかけても電話に出てくれず。
とにかく会わなければと平次は車を走らせ、米花駅で待ち続けた。
新一は車を持っていないから、移動するなら電車しかない。
そして日が暮れた頃、なんとか駅で捕まえることが出来た。
「︙︙言い訳、してもええか」
どんな理由があろうと、忘れていた事実は変わらない。
だからひたすら謝るしかないと思っていた。
しかし。
どうも新一の様子が、それだけの理由で不機嫌ではないと感じた。
「昨日、オヤジの用事で親戚のおばちゃんトコ行ったんや。そこで︙︙一目惚れした奴おってな」
「︙︙え」
どくんと、心臓の音が聴こえた。
新一は目を見開く。
あまりにも予想した通りの言葉で、思考回路が正常に働かない。
「あんまし可愛いから、つい」
「降りる。じゃあな」
新一はドアノブに手を伸ばした。
一刻も早く、この場から離れたかった。
見たくない。
聞きたくない。
どうして俺の前で、そういう表情ができるんだ?
やっぱり女がいいなら正直に言えばいい。
遠回しにせず、素直に言ってくれればいい。
「おい工藤!?」
伸ばした手。
それを、後ろから平次の手が止める。
「もういい。事故にでも遭ったのかと心配しただけだ。何にもなくて、良かった」
「︙︙」
「だからいい。怒ってる訳じゃない」
平気だ。
俺は、平気。
「今日は帰る」
︙︙探偵仲間に、戻るだけだ。
俺はこれからも変わらず『工藤新一』を演じるだけ。
「頼むわ︙︙鍋の材料、買い込んどんのや。俺一人じゃ食い切れへん」
しかし平次は、腕を離そうとしない。
それどころか何とかして新一を、部屋へ呼ぼうとしている。
︙︙その『サクラコ』と食えばいいだろ。
新一は怪訝な顔をする。
『サクラコ』の待っているだろう部屋に、どうして連れていこうとするんだろう。
紹介でもするつもりか?
︙︙そうかよ。そういう気かよ。
なら、その『サクラコ』とやらの顔を拝ませてもらおうじゃねえか。
「そうか。わかった」
「ホンマ?」
「︙︙さっさと車、出せ。寒い」
「わ、わかった」
新一の眼光の鋭さと口調に、平次は一瞬たじろぐ。
そして急ぎマンションへと車を走らせた。
「あいつ︙︙大人しゅうしとるとええけど」
「え?」
複雑な想いを抱えたまま辿り着いた目的地。
鍵を開けながら漏らした平次の言葉に、新一は眉根を寄せる。
そんなに落ち着きのない女なのだろうか︙︙
と言うか︙︙その前に、玄関に女物の靴が見あたらない。
︙︙?
まさか、わざわざ靴を隠す芸当をするとも思えない。
そのとき奥の方からガタガタと物音が聞こえた。
「ああああ! やっぱし暴れとるなあ︙︙」
暴れる︙︙?
ますます『サクラコ』像が想像できなくなった新一は、平次に続いて奥へ入っていく。
︙︙そして聞こえてくる何かの鳴き声。
「こら! 今出したるから、暴れるなっちゅうのサクラコ!!」
「︙︙ね︙︙こ︙︙?」
駆け寄った平次が抱え上げたのはキャリングケース。
中には真っ白の仔猫が一匹暴れていた。
「ほれ。出てええぞ」
入り口を開けて中から出してやる。
途端に仔猫は、猛ダッシュで部屋を駆け回り隅っこからこちらを睨んだ。
それを満面の笑みで平次は見る。
「こいつが桜子や。可愛ええやろ?」
︙︙途端に、新一はその場にへたりこんだ。
「どないした。猫、苦手か?」
「い、いやちょっと」
「保護した猫が妊娠しとったらしくてな︙︙三匹居ったんやけど、こいつだけ俺ん側から離れんのや。めっちゃ気に入ってしもた」
なんなんだろう。
こいつのこの、無邪気でとろけそうな顔は。
そしてなんだったんだろう。
俺の、今までの葛藤は︙︙
「母猫が『さくら』言うてたから、そのコドモで『桜子』にした。女の子やしな︙︙ほれ桜子、お前も工藤に挨拶せえ」
そうして、平次は桜子を抱え上げ新一に渡す。
仔猫は結構な美人で、最初新一の腕の中で逃げるように藻掻いていたが、そのうち気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。
「こいつ昨日の晩連れて帰って来てから、走り狂って追っかけっこでな︙︙寝たと思うたらすぐ起きるし、俺が寝たらこいつに起こされるわの繰り返しで︙︙気い付いたら夕方やった。時計見て、飛び上がって電話したんや」
「︙︙確かに、すさまじい状態だな」
いくら散らかっていると言っても、通常はそれなりに片づいている平次の部屋。
それがまるで泥棒が入った後のように足の踏み場もない。
桜子は、自分は知らないといった風にみいみい鳴いて、新一の手のひらにすり寄っている。
「あ。なんや桜子、工藤にはええ顔して」
かまって欲しくて。
いつも、こっちを見ていて欲しくて。
だから︙︙我が儘をしてしまうのだ。
「そっか。お前も服部が好きか」
新一は、平次に聞こえないぐらい小さな声で呟く。
仔猫も選んだのだ。
目の前に現れた服部平次を、自分で。
︙︙こんな小さな体ですり寄られたら、そりゃあ一目惚れもするだろうな。
て言うか︙︙
「お前、猫なら猫って言えよな。名前だけ言われたら、どこの女かと思うだろ」
「へ?」
「︙︙もうこんな思いはごめんだ。心臓がもたない」
「オンナ︙︙? ああホンマやスマン!」
︙︙勘違いで良かった。
まだ、一緒にいられる。
「︙︙工藤」
ふと。
視線が絡み合い、止まる。
近づく気配。
触れるだけの、口付け。
その時︙︙新一の喉を、二人の間にいた桜子がぺろりと舐めた。
「!」
「へっ?」
予想しない攻撃に驚き、新一は身体を離す。
そのとき散らかっていた衣類を踏んでしまい、そばにあったソファに倒れ込んだ。
伸ばし掛けた手の行き場がなくなり、平次もバランスを崩す。
なんとか桜子は死守した新一。
手の中できょとんと新一を見上げると、跳ねてどこかへ行ってしまった。
「び、びっくりした︙︙」
「こら桜子! なんで俺と工藤の邪魔すんねん?」
「そっか。猫の舌ってこんなザラザラだったっけな︙︙」
「調子狂うたな︙︙気い取り直して鍋や、鍋食お」
いい雰囲気になったものの、桜子の邪魔が入り二人は我に返る。
改めて部屋の惨状が視界に入るが、腹が減ってはなんとやらなので先に食欲を満たすことにした。
鍋で食欲が満たされ、次はこちらの欲。
仔猫が寝た隙を狙い一気に事に及ぶ。
「シーツもお前も、猫くせえな︙︙」
「せやろな。あっちもこっちも毛だらけや」
ひと波終わった微睡みの中。
新一が、ぽつりと漏らす。
「なんかむかつく」
「お。妬いとるん?」
「うるせえ」
言いながら、平次にすり寄る新一。
そして猫の様に︙︙その褐色の腕を、べろりと舐めた。
「!? く、工藤?」
「︙︙これからは、しょっちゅう来るからな」
「へ? お︙︙おう、そら嬉しいけど。急にどないした」
「先住猫の意地」
「︙︙は?」
仔猫に一目惚れして約束をすっぽかされた。
この調子だと、また同じ目に遭わされる予感しかない。
となると対策は︙︙同じくらい、一緒にいるしかない。
「え、わ!」
「おー。今度は桜子が妬いたんか?」
とその時。
壁際の新一の背中から、小さな毛玉が姿を現した。
いきなり感じた感触。
つい、声が出る。
「って︙︙ここで落ちついちゃったけど、いいのか?」
「やっぱ俺と工藤に妬いとんな。かわええやっちゃなあ」
「まあ可愛いのは確かだけど︙︙」
とことことシーツの上に降りたと思ったら、二人の間にすとんと座る。
肩のあたりで人差し指を出すと、くんくんと嗅ぎ喉を鳴らした。
・・・小さくあくび。
やがて、新一の腕にぴったりとくっ付き寝落ちする。
「もっかいしたかったんやけど、こら無理やな」
「だな」
「しゃあない。こんまま寝るか」
「ん︙︙なんか急に眠くなってきたし」
言いながら新一はすでに意識を手放している。
平次は足下に転がっていた布団を引っ張ると、寒くないようにと肩までしっかりと掛けた。
Pink Confusion.
それは。
これから始まる、奇妙な三角関係の物語。
[了]
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